建築学科ごっこ

建築学科ごっこを通じて見つけた、模型作成、図面加工、時間管理などやりかたまとめ

忙しい建築学科生に足りないのは「時間配分」より「努力配分」の感覚なのではなかろうか

 

 

クリエイターの努力というものは4パターンあり、栄養素と同じくそのバランスが肝要なのだけれども、そこを行くと建築学科生というのはクリエイティブを自称しておきながら自らの「努力の偏食」に全く無自覚なようだ。

 

建築学科生の健康事情は僕がここに語るまでもない惨憺たる事情ではあるけれども、どうかするとこの歪な頑張りの配分によって、建築学科生のエネルギーがますます徒に消耗されている気がしてならない。

 

端的にいうと、建築学科全体において努力の仕方がおかしいのである。

 

そんなバカな、俺はこんなに毎日課題に追われて必死に図面や模型と向き合っているのに!

と早合点してもらっては困る。

 

僕が僕自身(及び身の回りの友人・先輩)から感じ取ったのは、建築学科生の「努力不足」ではない。

 

あくまで「努力バランスの歪さ」である。

 

 

そして、その偏りこそ、徹夜しても徹夜しても満足の行く提出物が出来上がらない現象の最大の理由だと考えている。

 

この考えが、僕の身の回りにしか当てはまらない杞憂であることを祈りつつ、その処方箋をここに記す。

 

 

f:id:houman-arch:20161004235548j:plain筆者の想像する上達する努力の分類パターンは上の図の通りである。

 

即ち、努力にはインプット型アウトプット型がある。

模写や読書を通じて知識を取り込む前者に対し、図面を引いたりパースを描いたりし自分の頭のなかにあるものを可視化するのが後者である。

 

また、努力には質重視型量(スピード)重視型がある。

 質より量という言葉に表されるように、とにかくスケッチしまくりスタディを作りまくる努力もあれば、じっくり建築物をデッサンしたり、一つの作品を最後まで作り上げるような努力もある。

 

 

これらには善悪もなければ優劣もない。

また、順序も序列もない、相互に関連し合った表裏一体の関係である。

 

 

表現したいものを表現しきれないフラストレーションが、製作者を大量の模写・模倣に駆り立てる

模倣により習得したスキルの披露をモチベーションに、創作意欲が湧き上がる

 

創作スピードが向上すれば、制作した量も増え経験値がたまり、作品の質は上がる

ハイスキルなクリエイターなら、その品質を標準まで落とせば簡単にスピードに転換し、より多くの作品を作り出せる。

 

 

 

上達するクリエイターに共通するのは、常に自分に欠けているのがインプットなのかアウトプットなのか、必要なのは努力のなのかなのかを自問し、最適な創作トレーニングを積んでいる点である。

 

 

 

まっとうな義務教育過程を歩んできた人間なら、勉学か、スポーツか、文化・教養(漫画・ゲーム・アニメ等サブカルチャー含む)のいずれかの分野でこうした努力論を、経験的に体得している。

 

なぜなら、語学・数学・スポーツ・芸能・芸術・工学あらゆる分野において、技術を習得する基本原則はこの組み合わせ4パターンに集約されるからだ。

 

 

ただし、この組み合わせを自覚しトレーニングを重ねている学生は限られている。

そして大抵の場合、4つの内いずれかのパターンの欠落により、努力しても努力しても前に進めない閉塞感に悩まされている。

 

そして悲しいかな、建築学科生に当て嵌めた場合、往々にしてパターン4(アウトプット/質重視型)のみに傾倒している学生が大半である。

 

 

 

表現を変えて繰り返すなら

課題・卒業設計・コンペに振り回され、課題外の創作・研究を後回ししていると言ってもいいかもしれない。

 

 

 

建築学科生だけが「建築学科は忙しい」と信じ込んでいる - 放漫学生の建築学科ごっこ

造形美と新規性に溢れ、社会的側面から見ても思慮の深い設計を、繊細かつ力強い図面と模型によって表現する学生。

彼らに共通しているのは、課題と完全に独立した日常的な鍛錬とトレーニングの存在です。 

 

多くの大学のカリキュラムでは設計演習の初期に行われる数回の図面模写(トレス)と数回の模型作成、そして数枚のスケッチ以降、完全にアウトプット/質重視となり、一ヶ月以上かけて学生に設計をさせる課題に重心を移す。

 

しかし、「『学ぶ』という言葉の語源は『真似ぶ』である」などという陳腐な警句を用いるまでもなく、模倣・模写は技術習得の要であり、本来なら大学4年間を通じて片時も欠いてははならない程重要なトレーニングである。

 

 

例えば、矩計図やファサードデザインに悩んだ挙句、新建築で見つけてきたそれっぽい図面や写真を継ぎ接ぎして自分の作品にした経験は多くの学生に共通のものだろう。

 

しかし、それは模倣ではあるがその場限りの猿真似であり断じて「インプット」作業ではない。

 

 

  • なぜこの設計にはこの基礎を採用したのか?
  • なぜそのコンセプトの建築にこの外装材が適しているのか?
  • なぜ梁と柱の接合部にその技術を用いるのか?

 

といった知識は、継ぎ接ぎの模倣ではなく、一つの建築をまるごと吸収しなければけして身につかない。

だから次に同様の設計をする場合にも、前回の経験を生かせないまま、再び新建築を舞台に、なんとなく課題に使えそうな図面探しの旅を繰り返すことになるのだ。

 

 

 

 

 

一方質重視の鍛錬も、度が過ぎると害になる。

質の低い、誰にでもできる事を繰り返すという行為は、初学者が一皮むけるにあたって重要な意味をもつ。

なぜなら「出来ないことを出来るように努力する」ことと同じくらい「出来ることをより確実に出来るように努力する」ことは難しく、価値があるからだ。

 

 

設計という行為には様々な要素や意図が絡まり合う複雑で高度な作業であり、意思決定の連続である。

 

窓の大きさやキッチンの高さ、壁の厚みと言った寸法上の問題や、玄関・廊下・階段・諸室の間取り、ファサードや開口部のデザインと、何の面白みもない一戸建て住宅の設計ですら、不慣れな学生にとっては大仕事である。

だから悩み、迷い、スケッチを重ね、スタディを作り、参考資料をかき集める。

まして、集合住宅や保育園、病院に美術館といった公共性の高い、規模の大きい設計となると意思決定の量は莫大になる。

 

これでは課題期間中に提出が間に合わないのも宜なるかなだ。

 

 

 

 

だからこそ質より量のトレーニングによる練度の向上が重要となる。

 

膨大な意思決定の負担を軽減するためには、慣れと経験と暗記で解答できる悩みや迷いをゼロ秒でクリアし、より本質的な悩みにリソースを割かなければならない

 

 

 

冷静に記憶を探り直して欲しい。

 

課題提出期間前の一週間で、本質的でない調べ物に取られた時間はどのくらいあるだろうか?

ドアの大きさ、床スラブの厚み、平面図における開口部の納まり、模型上での空間表現……

そんな普段からのトレーニングで補える程度の軽微な選択に頭を悩ませた結果、設計の核となる選択に質の高い意思決定をする頃には時間も体力もないという経験はないだろうか?

 

 

 

そして胸に手を当てて数えてほしいのは、自分が今までに作り出した成果物の数である。

 

 

 

  • トレスした図面の枚数
  • 描き上げたパースの枚数
  • 作ったスタディ模型(既存・オリジナル問わない)の数
  • 完成させた模型の数
  • そして課題やコンペとは無関係に取り組んだ設計トレーニングの量

 

それはクリエイターを名乗るにふさわしいだけの量を備えているだろうか?

 

 

 

 

 

まとめ

筆者は設計系のゼミでないので、少なくとも建築設計におけるこうしたトレーニングは両手に納まる程度の数しか行っていない。

(それでも自室で寝ることさえ出来ない量の模型とスケッチとなった。)

 

だから、量質兼ね備えたバランスの良いトレーニングの難しさは把握しているつもりである。

仮にあなたが実行できていなくとも恥じることはない。

 

期日までに課題を提出するのですらいっぱいいっぱいというのが、放漫なる僕の現実であり、それ以上の鍛錬を日々行うというのは、あくまで理想論である。

 

しかし、それを理想とも思っていないがゆえに、目指す方向すら見えずさまよっている建築学科生が多いのも事実である。

 

 

 

 

あなたの設計課題が終わらないのは設計課題に対する努力が足りていないからなのだろうか?

 

 ぜひ課題に振り回されること無く、自分の努力配分に気を配ってみてほしい。

 

それでは、ご武運を。

 

 

 

建築学科にはびこる悪習と被害妄想についてはコチラ▼

houman-arch.hatenablog.com

 

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